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昭和ノスタルジー

私が生まれた頃は今の水田の作付けの1/5ほどの面積だったそうだ。

父も母も働き者でおばちゃんは野菜作りが上手でおじいちゃんが昔この地区の小学校のPTA会長をしていた事を知ったのは旧北成小学校の階段の踊り場に掲げてある歴代年表の中に名前を見つけてからだ。私が30代の初めの頃である。

子供の頃の楽しみの一つが外風呂の五右衛門風呂である。小さくて古いが戸建の脱衣場もある風呂場で、小柄なおばちゃんは午後4時頃になると湯釜の水を排水、釜の中を竹箒で洗い、ホースで新たに水を溜め、薪を焚べやっと湯が沸く。そのタイミングも絶妙で晩御飯前の午後6時頃。その間に自宅に戻りご飯も鍋釜で炊いておくのだ。当時7人家族だった私達はお風呂の順番がだいたい決まっていた。一番風呂は大黒柱の父親。後はご自由に。私は二番手か三番手が好きだった。何故なら一番手は熱すぎて子供の私には無理。でも最後の方になるとぬるめの湯加減となり蛇口を捻っても出るのは水ばかりなのだから必然とそうなったのだろう。

今思うと恐ろしいほどの時間と労力をかけて家族のためにお湯を沸かしてくれたハルエおばあちゃん。お陰で学校や職場で嫌なことがあってもこの鉄釜のお風呂に入れば心も体も癒された。おまけは風呂に浸かりながら月を愛でることができたし、夏場は風呂上がりに外の蛇口の下のバケツに冷えたトマトやきゅうりがあってそれをかじりながら夜空を見上げ星空観察。しかも鉄分をゆっくり外側から吸収した皮膚は湯冷めしにくく、お布団に入ってもポカポカしたままなのだ。なんと贅沢な子供時代だったのだろう。私が25歳の頃までこの外風呂は使われていた。

私の記憶の中で今でも彼女は誰よりも素晴らしい人生のお手本である。いつか彼女の生まれ故郷の徳島に行ってみたいと思っている。