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宇良治さん

私の長年の謎がおじいちゃんの名前だった。明治40年新潟県生まれのおじいちゃんの名前は『宇良治』。これを読める方は少ないと思うが、『うらじ』と読む。

もの心付いた時から多分一生こんな変わった名前の人には出会わないと思ってきたのだが、案の定今まで見たことも聞いた事もない。しかし親が子供に名前をつける時というのは親の好きなことだったり願いだったりこんな生き方をしていってほしいとか音の響きだったり苗字との相性だったり様々考えるのが常であると思うが、私はもしかしたらこの謎を解き明かしたのではないかと思った瞬間があった。それは、今から10年程前たまたま所用があって一人訪れた京都での出来事だ。

午後からまるっと時間が空いたので駅の案内板を見てふと思い立ち、同じ沿線上にある宇治駅で降りてみることにした。駅に背を向け少し歩き出すとそれまでとは明らかに違う空気感に気が付いた。なんともまったりとした悠久の歴史のベールをまとっているかのような不思議なオーラが漂っていた。その日は秋晴れの気持ちいい日でお茶で有名な商店街をゆっくり歩き、世界遺産の平等院鳳凰堂を見て宇治橋の袂まで来た時、宇治川に浮かぶ遊覧船が見えた。せっかくここまで来たのだからお土産話しに乗って見ようと思い、川面を見ながら歩いていた。そしてハタと頭をよぎったのである。『宇治』の間に『良』を入れたらおじいちゃんの名前になるではないか!! きっと何か宇治にご縁があって…だがどんなご縁かは想像の域を出ないのだが、昔の人はなかなか粋な名前の付け方をするものである。これが正解か不正解かは曽祖父の喜三郎さんに聞かなればわからない話だが、どんなロマンスが隠れているのかと思うと少しワクワクする。

偶然訪れた街でこんな奇跡もあるものかと。つくづく”旅”とは予期せぬ出会いの場であり感動の場であると思う。”どこに行くのか” とか”誰と行くのか”よりも大切なことは”自分が何を求めているのか” なのかもしれない。